※本インタビュー記事は2018年に執筆されました

看護師としての15年以上の経験を持って、カンボジアで在宅看護・介護サービスを立ち上げたフィルムさんにお話を伺った。

写真中央がフィルムさん (37)
高校に行くために13歳から親元を離れる。地方の看護学校を卒業して、プロの看護師としての経験を積むべく、カンボジアの首都プノンペンに渡る。
国際病院やNGOで働きながら、国際機関主催のトレーニングに参加してスキルを磨く。
2016年にカンボジア初の在宅看護・介護サービスを立ち上げる。二児の母。


ガンの痛みを一切口に出さなかった父。痛みのない暮らしを届けたい。

幸せの反対とは”痛み”だと、私は思います。現在、在宅看護・介護サービスをプノンペンを中心に提供しています。患者さんには、高齢者が多いです。カンボジアに高齢者はまだ多くはないですが、このようなサービスを始めた理由は、私の原体験にあります。

ある日、患者の痛みの管理法についてのセミナーに参加しました。講義を聞きながら、ガンで亡くなった父がどれだけ痛みを持っていたかがわかりました。
しかし、父は、痛みについて一切口に出していませんでした。
おそらく、父は自分が働けなくなり、母が5人の子供を1人で育てていたのを見て、自分の辛さを口に出さないようにしていたのだと思います。
あの時、せめて痛みだけでも和らげてあげることができたならと思いました。このような経験をしているのは、私の家族だけではないはずです。私は、患者とその家族に痛みのない暮らしを届けたいと思っています。

f:id:now-ist:20180620020058j:plain
患者と本を読んでいるフィルムさん

寄付金では医療は継続しない。だから私は起業する。

起業しようと思った時、私は看護師としてHIV患者をサポートするNGOで働いていました。私はそれまでNGOで働くことが、社会貢献だと思っていました。
しかし、寄付金が十分に集まらなくなると、プロジェクトの規模は縮小され、人員削減も行われました。その時、気がついたのです。寄付金に頼っていては継続しない。医療こそビジネスの仕組みが必要なんだと。そうして、私は起業への決意を固めました。

まだ内戦中だった幼少期。看護師は絶対必要だと思った。

内戦が完全に終結しておらず、時々爆弾の音が聞えていましたので、けが人を助けるために看護師になりたいと思いました。
当時は、村にクメール・ルージュ(*)が来るという情報が入ると、生徒は急いで家に戻るという生活をしていました。怖がった生徒の中には、教室の窓からジャンプして逃げる者もいました。

*1976-1979年の4年にわたって、カンボジア国内を掌握していた組織で、リーダーの名をとってポル・ポト派とも呼ばれる。カンボジアの社会を原始共産制への移行を試み、少年兵などが活用されて国内の知識階級を中心に処刑された。犠牲者の正確な数字は定かではないが、200万人以上の人々がたった4年間に命を落としたと言われ、当時のカンボジア国民の⅓~¼程度とみられる。これにより、多くのカンボジア難民も発生した。

夢を追いかけて、小さな船とオンボロの車で向かった首都。

地方で看護学校を卒業した後、村で看護師として働きましたが、村人たちは医療を受けるだけのお金がなかったのです。
しばらくたってから、この状況では人を助ける前に自分が息絶えてしまうと思いました。看護師として、自分はどうしたらよいかを考えて、まずは首都のプノンペンに行こうと思いました。母は絶対に賛成しませんでした。
なぜなら、地方出身者で、しかも女性が首都に出ることなど、当時は全くもって考えられないことでした。
だから、私は、母に言わずに、プノンペンに行くことに決めました。その時が、人生2回目の首都行きで、当時私は二十歳でした。
オンボロの車でプノンペンに移動しました。今はあんなにボロい車には乗る気になれないです(笑) しかも、チケットの値段が安いことを理由に、私は車の天井に乗ったのです!危ないですよね。
でも、その当時の私は、風が気持ちいいなと思っていました(笑)

何を言われても戻らなかった。一緒にいた友達が自転車の後ろで泣いた。

プノンペンについたら、今度は親戚の家まで自転車で移動しました。
友達がいたので二人乗りで、しかも大きな荷物を二つも抱えて移動しました。
その光景を思い出すと今でも笑えます(笑) 友達は初めてのプノンペンだったので、2回目の私の方が少しは道がわかるから、ずっと私が自転車を漕いでいました。
今みたいにGPSの便利な地図はありませんから、いろんな人に道を聞いて、時には知らない人が、親切に途中まで案内してくれることもありました。そんな中、友達が突然泣いていたので、理由を聞くと、一生懸命に自転車を漕ぎ、目的地にたどり着こうとしている私の姿を見て、かわいそうに感じたと(笑) 今では、二人の良い思い出です。
無事にプノンペンの親戚の家に着きましたが、一日も早く自立するために、翌日からまた自転車に乗って、いろんなクリニックを回って仕事を探しました。
最初に見つけた仕事は24時間365日体制の勤務で、月$50でした。2001年のことです。それでも私は$30を食費に使い、$20を貯金するよう計画的にお金を管理していました。友達と2人で3mx3mくらいの小さな部屋に住みました。水道もなかったので、飲み水は沸かして作っていました。そういう生活でしたが、友達と夢を語りながら暮らしていました。

地方出身だって、女性だって、母親だってできる。私がそれを体現する。

起業の決意を固めたものの、私にはすでに2人の子供がいました。家族は私が起業することも、働きに出ることも反対でした。女性は家にいて家事と子育てをすることが、カンボジアの大勢の価値観です。
でも、私は20年も教育を受けてきたのに、女性だから、子供がいるからという理由では、諦めたいと思いませんでした。第二子が生後6ヶ月の頃、地方出張がありました。家族は小さな子供を置いて仕事に出ることを反対したので、私は一緒に連れて行くことにしました。ちなみに、母にも一緒に来てもらいました。
しかも、タイとの国境というすごく遠い場所に連れて行きました(笑) カンボジアの女性に対する大勢の価値観の中で、家庭と仕事の両立をするのはとても困難なことです。しかし、私は、自分が夢を叶えることで、若者たちを勇気づけたいと思っています。
また、自分の子供のロールモデルにもなりたいと思っています。

3
政府関係者が集まるサッカー試合のメディカルスポンサーとして、応急処置を担当。

医療サービスに必要なのは、患者(顧客)じゃない。本物のプロの看護師。

幸いなことに、今の事業は小規模ながらも、利用者の口コミで広がっています。利用者はこれまで長期継続利用者、短期利用者を含めて、30人程度います。看護師も常時稼働と待機も含めて30人程度です。
ビジネスというと、私はまず顧客が必要だと思っていました。しかし、始めてみて気がついたのは、まず必要なのは本物のプロの看護師だということです。
残念ながら、若い看護師たちは、医療技術には関心がありますが、患者には関心がありません。患者の血圧は気にするけど、患者の気持ちに寄り添うことができる看護師は少ないです。
すなわち、看護師が医療行為をするだけの存在になっているということです。なので、私は、今後トレーニング・センターを立ち上げたいと思っています。

f:id:now-ist:20180620020218j:plain
プロの看護師としてのマインドセット、医療の理論と実践を若手に伝えている

在宅医療の人材育成に取り組む未来

トレーニング・センターを立ち上げたら、看護師として必要なマインドセットからしっかりと教えたいと思います。また、在宅介護・看護に対する偏見を無くし、在宅医療の価値を上げたいです。医療従事者によっては、在宅医療は技術レベルが低いと見下している人がいます。
しかし、私たちが在宅医療で提供しているのは、技術的な医療だけではありません。患者のクオリティ・オブ・ライフを維持向上するためのあらゆることをトータルで行なっていますので、責任の範囲は大変大きなものです。
患者とその家族は、私たちを信頼したから、プライベートな空間である自宅で、患者と看護師の2人でいさせてくれているのです。
このような信頼関係は大切なことで、看護師たちは誇りに思うべきです。このようなことを、若い看護師たちにも伝えて、在宅医療に携わる誇りを持ち、プロの看護師として成長して欲しいと思います。

患者と家族の両方にクオリティ・オブ・ライフを届ける

PlanAがダメなら、PlanBがある。だから失望しない。

2017年にCambodian Young Entrepreneur Awards(カンボジア若手起業家賞)に挑戦し、ファイナリストに選ばれました。受賞には至りませんでしたが、たくさん学ぶことができました。私は新しいことを学び、挑戦することが好きです。私は挑戦するときに、PlanAとPlanBを必ず用意します。1つがダメでも、もう1つの方法がある。だから失望する必要がないのです。


ソーシャルマッチは、社会問題解決に取り組む東南アジア企業/NGOと日本企業との協働支援を行なっています。
これまで、東南アジア企業と日本企業との業務提携や、エシカルブランドの立ち上げ、輸出入取引など様々な協働を成功へとサポートしてまいりました。
ご興味ある方は、ぜひ資料をご覧ください。